保険金殺人事件について
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始めに: この文書を読んで、デマにしては、手が込んでいる、おおかた頭のおかしい奴が書いたんだろうと、殆どの方が思われるでしょう。マスコミ人でも同じであると思います。それほど、信じ難い凶悪犯罪です。しかし、1億2000万人もいれば、100人ぐらいは全てが真実であると理解する人もいると思います。その方たちに読んでいただきたいと思います。 特定の有力宗教団体の方々も、興味を持ってご覧になると思います。これから警察・検察・裁判所を巻き込んだ大騒動になるわけで、各方面に散らばり、上から指示を受けている信者の方々は、大変であると思います。良心の呵責もあると思います。今回限りは、今までのように公権力を使って、隠蔽し、抑え込むことはできません。真実には、それ自身の持つ力があります。 |
1999年12月〜 3年間で3人が死んだ。おかしいと思った。 |
95年9月、12年間勤務した(株)ムサシノキカイを退職した私は、自宅でぶらぶらしていた。自分で仕事を始めようと準備をしていた最中、ムサシノ時代に仕事で接触のあったある会社の専務から、自宅に電話が入った。11月だった。就職の誘いだった。95年12月、私は、東京都中央区銀座1-15-2 銀座スイムビル7階の株式会社 アーテックに雇用された。国際部所属であった。 96年以降、3年の間に3人の役員・社員が病死した。社長(当時)の荒木敏子、関連会社社長(当時)の片山俊三郎、アーテック課長の中川卓明の順であった。一人目の荒木敏子の時は、あまり疑問には感じなかった。年齢からいって、不思議ではなかった。二人目になって、どうも裏があるように感じた。しかし、まさか自分の父親を、金のために殺すとは思わなかった。3人目に至って、犯罪の影を口に出す社員が数人出てきた。私もその一人だった。3件に共通することがある。 �@死亡事案の一ヶ月位前から、日頃、接触のない複数の人物から、特定の会社幹部(同一メンバー)に頻繁に電話連絡がある。死亡と同時に、これらの電話が一切無くなる。 �A3件の入院・葬儀などの手配に奔走するのが、常に同じメンバー(アーテック現常務・社長室長の中島幸一、中島の配下の現営業次長の原信夫、営業部長の岸洋一、そして現社長の片山俊雄)であり、実に手際がよい。事前に計画したとおり進行させている感が強かった。メンバー以外の一般社員には、告別式段階まで一切手を出させなかった。 �B片山と中島との密室(社長室)での打ち合せが連日数時間に及んでから、それぞれの死亡事件が起きた。(今考えると下記のとおり推理できる。....片山は、非常に小心者であり、簡単に犯罪に手を出す男ではない。絶対に発覚しないという確信を持たないと、合意しない筈。中島は、片山を納得させ、説得するために多大な時間を使ったのであろう。) それ以外にも、不可思議なことはたくさんあった。 「テラサキ」と名乗る男性から、中島の不在時、電話があり、「この電話は、羽村ですか?銀座ですか?」と聞かれた一般社員が居る。アーテックには、銀座と大阪、埼玉蕨以外に事業所はない。何らかの目的ために、羽村に一般社員の知らない隠し事務所を設けていた可能性がある。(考えられるのは、複数の保険の加入業務を行うダミー事務所、もしくは脱税拠点。) 一人目の荒木敏子の死亡の際、片山夫妻はちょうど結婚何十周年かのヨーロッパ旅行に出かけたところだった。現地に到着したところで、訃報を知り、とんぼ返りして、通夜に間に合った。中島による帰りの航空券の手配など、手際のよさが際立った。(前述の通り、片山は極めて小心である。荒木社長殺害の計画に同意する条件として、自分のアリバイを確実にしておきたかったと考えることもできる。) 3人目の中川卓一が99年1月初に死亡すると同時期に、出入りの第百生命(破綻済み)の外交員も病死した。聞いてもいないのに、中島がわざわざ外交員の病気のことを私に報告に来た。私の反応を見たかったのか?(中川の死亡に第百生命の社員が関与していると考える。分け前を欲張りすぎたのかどうか知らないが、何らかの理由で中島たちに消されたと考えています。氏名はわかりません。)暫らくして、この外交員は死亡したが、中島から私に報告はなかった。 事後、岸以外のメンバーは、それぞれ昇格した。犯罪面での論功行賞であると感じた。しかし、これら全ての疑惑も、直接犯罪実在の証拠には繋がらない。私の妄想と片付けられても、仕方がない。繋げてくれたのは、後述の現役警察官である。 |
1999年1月 何人かが、同じ疑惑を持った。保険金殺人の可能性が見えてきた。 |
中川の死亡後2〜3週間ほどして、メンバーの表情が一様に明るくなった。メンバー同士で冗談を言い合い、何かが起きたことか感じられた。保険金が入ったととる事も出来た。暫くして、中川の夫人がアーテックを訪れた。未亡人と例のメンバーだけが、密室に入り、1時間ほど談笑していた。絶え間ない笑い声と嬌声が聞こえた。私とK氏は、夫人も事件に関与しているとの感を強くした。夫人が保険金の分け前をメンバーに渡しに来たのかもしれない。この時点で、少なくとも中川の死亡事案案については、事件性があると確信するにいたった。 月末になって、私は、警視庁のホームページに短い告発メールを送った。中川卓明の死亡が、保険金殺人によるものであるという匿名のメールであった。警視庁からの反応は無かった。(後日談だが、この時点で、警視庁内部の犯罪者集団は、私のメールから告発活動があることに気づき、アーテックのメンバーにも連絡したはずである。) 以後、事件に勘づいていた女子社員は、3ヶ月の試用期間終了後、さしたる理由も無く雇用契約を解除された。もう一人の男性社員K氏は、一緒に仕事を担当している片山が仕事に実が入らず、明らかに上の空になっていることに気づいた。. K氏は、少しでも疑問に思うことを、私に報告してきた。会社として、全く取引のない筈の企業から中島への妙に親しげなファックスが入ったとコピーを持ってきてくれた。差出人のアジア技研工業という企業の実態がわからないが、事件に関わっている可能性がある。 K氏も私も犯罪の実在に確信をもった。彼は自分に危害が及ぶことを恐れ、夫人と相談のうえ、片山の慰留をふりきり、6月末に無理やり退職していった。後述するが、後日、彼の自宅に空き巣が入った際、メンバーによる間接的な脅迫であろうと、彼自身言及していた。 私は、なぜか何も怖く感じなかったので、相変わらずマイペースで勤務を続けた。 |
1999年8月24日 中島らに殺されそうになった。 |
アーテック主任の都留氏の送別会の席上で、私は社長室長中島幸一及び営業次長原信夫の2名から、犯罪組織への勧誘を受けた。具体的には、「仲良くやろうよ。俺たちあんたとは、仲良くしたいと思ってたんだよ。」と、周囲に悟られぬよう、言葉巧みにアプローチしてきた。「嫌なこった。」と私は即座に答えた。続けて、「俺たち、片山さんは好きじゃないんだよ...嫌いなんだよ。」と中島が言った。次に現社長の片山俊雄の保険金殺人を計画しているのではないかと思った。そこで、私は、「嫌いなら、消しちまえじゃいいじゃないか?殺しちまえよ。」と応えた。お前たちの犯罪は、とっくに解っているという意味をこめて返答した。中島は気色ばんで私の襟元を掴んだ。 片山はメンバーの一員ではあるが、リーダーではない。アーテックのトップではあるが、小心者で、一番崩れやすい男。リーダーである中島は、万一を考え片山を消しておく必要を感じたと思う。どうせう殺すなら、お得意の保険金詐欺を兼ねて金儲けにも繋げたかったろう。それに、片山が居なくなれば、アーテックは中島の思い通りになる。 中島にとって、私の存在は、どうにも怖くて仕方が無かったろう。過去の犯罪の発覚を阻み、かつ次の犯罪を安全に行うためには、私を仲間に引き入れる必要があったのだろう。金品を与え、片山殺害にも加担させることで、共犯にしておきたかったろう。 しかし、私は中島の誘いを即座に拒否した。その場で私に騒がれることを恐れた彼らは、私の飲むワインに薬物を混入させ、前後不覚にさせた。この時飲まされた薬物の内容については、別途明らかにする用意がある。薬物により私をその晩のうちに殺害する目的であったのか、取り敢えず口を封じたかったのか、わからない。お陰で体調を酷く崩したが、兎に角、翌日以降も無理をしてアーテックに出社した。 事後、私の普段と余り変わらない顔を見た中島・原の驚きようから見ると、本来致死量を服用させられていたのかもしれない。数日間は、様子を見ていたが、メンバーが、改めて私の殺害計画を準備していることに気がついた。9月1日夕方に、米国TREDEGAR社の幹部が来社するに際して、どうしても同席してくれと片山から念を押された。当夜に私の殺害計画を進めている恐れがあった。私は、27日午後早退し、そのまま家族ともども一時身を隠した。 後にある一般社員から聞いた話であるが、メンバーは、平静を繕い、私の失踪を誠実に心配しているように振舞ったとのことである。それでも、何か切迫した様子がメンバー全員に感じられたとの同一人物からの報告もあった。 私が恐れていたのは、中島が発覚を恐れて、小心者の片山を殺害すること・私と私の家族を追いまわすことだった。そこで、防衛策をとった。 一週間ほどして、私はある女子社員を含め複数の社員の自宅に告発書簡を送付した。女子社員の母親は、書簡の差出人の名前に驚いて、すぐに会社にいる娘に連絡をとった。何も知らない女子社員は、中島に書簡の到着を伝え、中島は、すぐにファックスで送るよう依頼した。そうせざるを得なかった。かくして、告発の内容を複数の社員と家族、それに犯罪者一味が知ることになった。私は女子社員が、間違いなく中島に書簡を見せるだろうと計算した。そして、その通りになった。 中島は、告発の内容を笑い飛ばし、私の妄想であるとの印象を創ることに腐心した様子である。単純で無知蒙昧な社員たちはころりと騙された。犯行に薄薄でもきずいていた社員は、この時点では退職して一人も残っていなかった。しかし、残った無知蒙昧な社員たちが、犯罪の存在に懐疑的であろうと無かろうと、犯罪の概要を書いた文書を目にしたことに間違いは無い。少なくとも中島たちが次の凶行に出れば、真っ先に自分たちが疑われるという状況を作ることに成功した。一味が私と周辺の人間に手を出せない状況を作るため、女子社員に無意識のうちに協力していただいたわけである。これは、事件解決後、当人とご家族に謝らなくてはならない。また、告発書簡には、次に誰が狙われるかを書いておいた。真っ先に片山が狙われると書いた。事件発覚の際に口を割るのは片山しかいない。片山を生かしておかないと、事件の真相を話す者はいなくなると考えた。 |
1999年10月12日 警視庁に告発した。 |
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警視庁のホームページあてに3件の保険金殺人事件の告発メールを送付した。警視庁からの反応は無かった。同時にマスコミ各社にも、同様の情報をメールで流した。告発メールは警視庁内部の協力者の手で隠匿され、犯罪組織に回送された筈である。(警視庁、マスコミ向けメールの内容は、ほぼ同じです。) その頃、私の告発文を読んだというマスコミ関係者を名乗る人物から私の自宅に電話があった。会って話を聞きたいというので、10月18日に会うことにした。 |
1999年10月17日〜 |
東京港区のマンションに小さな事務所を開設した。4、5日の間引越しと整理に忙しかった。 |
1999年10月18日 フジテレビの記者から取材を受けた。 |
フジテレビの報道記者を名乗る女性と午後2時にお台場のホテルニッコーのロビーで待ち合わせた。待ち合わせ時間を1時間間違えた私は、午後1時にはホテルに着いてしまっていた。彼女が来ないので不審に思い、彼女から聞いていた携帯電話(09043738703)に連絡した。彼女から2時のはずと言われて、自分の思い違いとわかった。1時間の間、ホテルの外で時間をつぶした。2時近くになって、彼女から携帯電話に電話が入った。彼女はホテルのロビーで待っていた。身長160cm位の長い黒髪のなかなかの美人であった。現代女性には珍しく、髪を一切染めていなかった。 私を見たとき、彼女は口をあんぐりと開け、なぜか非常に驚いた顔をしていた。理由はわからない。ホテルのコーヒーハウスに入って、彼女の名刺をいただいた。そこには、フジテレビ ニュースジャパンの信原麗(ダイヤルイン03-5500-8480、FAX03-5531-8270、E.MAIL:rei.nobuhara@fujitv.co.jp)とかいてあった。私のフジテレビあてのメールを見て取材をしたかったとのこと。(フジテレビには、他社とは別に10月12日にメールを入れている。)彼女は、既にアーテックの荒木敏子前社長が死亡していることを調査で確認済みだといった。 そして、ムサシノ(後述)についても、会社の登記簿を取り寄せていた。私は、登記簿を見せてもらい、事件の鍵となる人物の一人で武蔵野産業専務である西井大八氏が、99年の初めに役員を降りていることを知った。その背景を知りたいと思った。(ムサシノの案件については、複雑で理解が困難なため、別途説明します。ただし,マスコミ向けメールには、一部記載してはあります。) アーテックで死亡した中川や犯罪関与者の写真を彼女に渡した。信原さんとの話は、4時ごろまで続いた。それまでの間、信原さん曰く、上司と称する人物から10回近く、彼女の携帯に連絡が入った。話を切り上げて、次の打ち合わせに向かうよう催促されていると彼女は言った。それでも.彼女は腰を上げずに私との話を続けた。非常に熱心に聞いてくれた。 彼女が本当にフジテレビの記者であるのか、その時点では疑問に思わなかった。フジテレビには実際に信原という記者はいるかもしれない。それが彼女と同一人物であるかも残念ながらわからない。後日フジテレビに電話してみたら、取材中で不在との話であった。フジテレビではなく、近くのホテルで取材を求められたのも疑問ではある。 後日、警視庁から呼び出されたことをメールで伝えたが、反応らしき反応は無かった。保険金殺人とオウムがからんだ事件に、警察が捜査に動き始めたと知ったなら、普通のマスコミ人なら絶対に飛びつくはずである。ところが、不思議な沈黙が続いた。彼女が、報道記者を繕って私から情報を聞き出そうとした組織のメンバーであると考えられないこともない。もしくは、報道記者であり、かつ組織のメンバーであるかもしれない。そういえば、麻原は長い黒髪の女が好きだった。 (注記:2000年8月に入ってすぐ、2チャンネルのスレッドに彼女についての情報をいただいた。同じCX社内の方からの書き込みだった。彼女は実在の人物で、報道局社会部の所属とのこと。私が会った人物と実在の人物が同一であることもほぼ確認が取れた。⇒2CHの警察板、「告発します。」スレッドの書き込みNO.315以降) |
1999年10月22日 アーテックが通告書を郵送してきた。 |
アーテックは、弁護士の名前を使って、通告書を出して来た。「告発の内容は全て妄想であり、これ以上告発活動をすると名誉毀損で告訴する。謝罪文を出せ。さらに未決済の支払金を弁済せよ。」との内容であった。後日、私から、一日も早い告訴を促し、未決済の支払金は相殺するとアーテック側の大幅借越しになるとする書面を三度送った。 2000年6月今日現在、いまだに告訴の事実はない。さらに、アーテックは、私がアーテックに\3、358,113を返済すべきであると通告書(P.13〜15)にて主張しているが、以後催促など、ただの一度もない。彼らの犯罪が実在せず,全て私の妄想であるとするならば、なぜ告訴しないのか?なぜ、300万円以上もの大金を、私に請求してこないのか?もう半年以上経っている。 この時点で、3人の死亡を保険金殺人に結び付けるには直接的、物的証拠はなく、多分に想像の範囲である。中島は、私も半信半疑の状態であると推測したであろう。弁護士の公式な文書で、通告すれば私が黙ると計算したと思う。今後、この弁護士と犯罪組織との関係も調べる必要が出てこよう。 (注記:この弁護士は実在。第一東京弁護士会の所属で、港区芝大門に事務所がある。ただし、本当にこの弁護士が通告書を書いたのか、名前を使われただけなのかは、不明。調査中。) |
1999年10月29日 警視庁から電話が入った。 |
私は、開設後間もない港区の事務所で、初めての来訪者を迎えようとしていた。12時55分、電話が鳴った。電話に交互に出た相手は、警視庁捜査一課の小野・鈴木と名乗った。「警視庁にもらったE.メールの件で、話を聞きたいので10月30日(土)か31日(日)のどちらかに警視庁に来てください。資料まとめて持ってきてよ。」そう言われて、私は、翌30日の土曜日に訪問することを約束した。電話を切るかきらないか、ちょうどその時に近江化学工業の松田営業部長と白石カルシウムの吉永係長が来訪した。1時ちょうどだった。韓国向けの樹脂乾燥剤の商談が目的であった。この時点では、私は、警視庁からの電話が、正規の捜査に基づくものであると信じて疑わなかった。 |
1999年10月30日 警視庁に呼び出された。この刑事達が一味の仲間だった。 |
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土曜日だった。私は、地下鉄日比谷線で警視庁に向かっていた。車内で、大学時代の友人、村上克也氏にばったり会った。ほとんど卒業以来だった。互いに名刺を交換し、近々に再会することを約した。日比谷で電車を降り、徒歩で警視庁に向かった。土曜日であり、車は少なく、快晴。気持ちのよい朝であった。約束の午前10時を少し過ぎたところで、警視庁に到着した。 警視庁のロビーに入り、左脇の受付で、来訪目的を告げ、用紙に半分記入したところで、背後から声をかけられた。「お待ちしていました。」長門勇によく似た小柄な男が、そう言った。小野警部補であった。もう一人の長身で額の禿げ上がった、眼鏡をかけた男が、鈴木であった。ギョロ目が印象的であった。制服を着た受付の警察官は、私の書きかけの来庁者登録用紙をしまいこんだ。私は、ロビーまで出迎えていただけるほどの重要人物であったようだ。どうやって警視庁に来たのか聞かれた私は、日比谷から歩いてきたことを小野に伝えた。小野は、最寄駅は霞ヶ関であると言った。 小野と鈴木に案内されて、警視庁2階の参考人聴取室に通された。入り口に施錠された扉があった。小野は、インターホンで係官を呼び出して、「捜査一課。」といった。しばらくして、制服の警察官が内側からドアを空けた。 ドアの内部には、明るい別室があり、刑事らしき人間4人が座って、雑談していた。さらにこの部屋の左奥のドアを空けて、内部に通された。廊下を挟んで両側に小部屋が連なる構造だった。小野・鈴木の他に3人の人間が中で待っていた。右手の2つ目か3つ目の小部屋に通された。同じ部屋に小野・鈴木の両名と私が入った。残りの3人のうち、一人がドアの外の廊下のイスに座り、残りの二人は廊下を隔てた反対側の部屋に居た。廊下の一人は30代前半、残り二人は中年。 この身元不明の3人が私を見る目が印象的であった。まるで、悪魔を見るような、この世で一番会いたくない人間に会ったような、いやな顔をしていた。なぜそんな、疎ましい顔をしたのか、疑問に思った。そして、事情聴取の真似事が始まった。 直接の事情聴取は、小野が行った。警察手帳の氏名の載っているページを私に見せ、刑事部捜査第一課の警部補、小野善久(おのよしひさ)と名乗った。鈴木と名乗る眼鏡をかけた男は、書記役であった。私の説明を殴り書きしたA3大の書面を、逐一、廊下の外で待っている別の刑事に渡していた。(聴取の内容を調書にする作業と思われるが、結局調書は作成されず、署名や捺印も求められなかった。) 持っていった資料を一通り、説明した。警視庁あてに送ったメールのコピーはないのかと小野に聞かれた。「警視庁のホームページのメール窓口は、文章を貼り付けて送信するタイプだから、僕の方にコピーはない。中身は、マスコミ向けに出したやつと同じですよ。」と説明した。小野の手元に、私の警視庁あてのメールのコピーが無い様子だったので、不思議に思った。正規の捜査であるならば、当然一番大事な資料として、まず上司から渡されるはずである。(この時点では、信原から入手した書類しか手元になかったのか?....失礼。信原さんが彼らの仲間と断定してはいけませんね。) 小野:「あんたの告発が、オウム真理教に関連しているんで、オウム対策担当の私の部署に捜査の指示がきた。ほら、警察手帳にも挟んである記事のとおり、前からオウム担当してんのよ。私が中心になって、これから捜査を進めるから。いやね、オウムの事件では、捜査一課は出る幕無くって、歯軋りしてたのよ。刈谷清志さん拉致事件でやっと出番が回ってきたわけよ。」 今、考えるとオウム捜査担当であることを印象付けるための嘘であったように思う。(後日、私宛の携帯の伝言で、自らオウム対策の小野ですと名乗っている。) それから、延々と事情聴取が続いた。アーテックでの3人の死亡案件などについて、たっぷりと説明させられた。そのうち、昼時になり、食事に階下に降りないかと聞かれた私は、腹が減っていないのでと断った。しかし、鈴木から促され、1階の食堂に下りていった。その際、鈴木から「この部屋には鍵をかけるから、カバンを置いていってください。」と言われ、そうした。部屋を空けている間、残った刑事たちはカバンの中身を調べることが出来た筈である。そして、入っていたファイルのなかの書類をむさぼり読んだろう。そんな必要はなかった。そのファイルは、最後に私から小野に渡されたのである。 食堂には、小野、鈴木、30代の刑事の3人がついて来た。ほかの警察官たちから離れた席に案内され、菓子パンとパックコーヒーをご馳走いただいた。刑事という仕事にかかわる世間話。食事の間も、30代の若い刑事は、酷く落ち着かない様子で、顔がこわばっていたのを思い出す。何をそんなに緊張しているのかと、不思議に思った。 この時、小野と話した話題を思い出したので、付記しておく。小野が、タンクローリーの爆発事故で、捜査に忙しいと言っていた。多分、この事故のことだと思う。なんで、この事故に捜査一課が出向くのか不思議に思って聞いたところ、原因が不明だから、犯罪の可能性があるなどと言っていた。読売の記事でも分かる通り、実際に捜査一課が捜査に関わっている事故である。(警視庁捜査一課の係の中で、この事故の捜査に携わっていた部署に、少なくとも当時は、小野が所属していたということになる。多分、これは事実であろう。小野が咄嗟に嘘を言ったとは思えない。)捜査一課の中に火災班捜査1係及び2係という部署がある。放火並びに失火を捜査する部門である。実際は、小野がこの部署に所属していたと考えると、納得がいく。ただし、この事故は業務上過失激発物破裂容疑で書類送検されており、その観点から見れば、第2特殊犯捜査、特殊犯捜査第4係が担当していると見てもおかしくない。この部署は、捜査一課内で業務上過失事件の捜査を担当している。もし、小野がこの部署の所属であれば、「オウム対策」とは、全くかけ離れた、一番関わりのない部署になる。 (ただし、2000年10月になって、この事故の運転手が創価学会の地区支部長であることが、ネット同志の情報からわかった。創価の仲間をかばうために、警視庁の創価警察官である小野が駆り出されたと考えると、納得がいく。) 食事の後、ロビーの近くの喫煙所に案内された。ここで、私は今回の事件の話の続きをしようとした。すると、鈴木が「ここでは、例の話はしないでください。周りの刑事もそれぞれ立場があるので。」と、よく意味のわからない説明であった。ようするに、部外者に聞かれてはまずかったのだろう。 午後も聴取は続いた。鈴木が聴取室を出たり入ったりし、外の中年刑事たちとやり取りしているのがわかった。酷く動揺している様子が窺えた。この辺りから、どうもおかしいと感じるようになった。昼休みの間に私のファイルを見た刑事たちは、情報が既にマスコミ複数社に流れている事を知ったはずである。当日、私に対する何らかの計画を持っていたとしても、実行できなくなったはずだ。 私は、既にマスコミと接触があること、特にフジテレビの自称報道記者、信原麗という女性と連絡していることを、伝えた。刑事たちの固い表情は変わらず、信原についてただの一言も発言しなかった。奇異に思った。組織の仲間だからか? 鈴木から、聴取は今日一日では終わらないので、再度11月3日(祝日)に来てくれと依頼された。特に話し残したことはなかったはずだが、そう言われた。私は、休みの日は都合が悪いため、ウイークデイを希望すると応えたが、鈴木は理由を説明せず、再三休日を主張した。ウイークデイでは捜査に都合の悪いことでもあるのか? 私は、3人の死者が、それぞれ違う病院で死亡していることから、殺人を請け負う複数の医師のネットワークが存在すると考えていた。そのようなネットワークを組めるのは、オウムの類しかないと、その時点では考えていた。今となれば、ほかにいくつかの仮説が立てられるのだが。 警察やマスコミに補足されていないオウムから派生した地下組織がある事は、以前からわかっていたが、その地下組織が、暗躍していると判断していた。しかし、オウムそのものではなく、分派して、いまやオウムと直接かかわりの無い、独立した組織であるとの認識をもっていた。また、別の宗教団体の支配下にある、オウムを偽装した連中かも知れないという考えもあった。(オウムと関係はあるものの、同一視しては、判断を誤ると思います。)
そして、鈴木から私本人の家庭環境や病歴について執拗な質問が始まった。病歴といっても、血液・尿検査をいつどこでやったのかばかり聞かれた。このあたりから、連中の正体が見えてきた。鈴木が、頻繁に外の部屋と出入りを繰り返していたが、後述の「宮沢」などと、事後の対策を練っていたのであろう。私の尿の検体に何をするつもりなのか、大体読めてきた。15時ごろまで聴取は続いたが、過去に脅迫状をもらったことがあると話したことろ、その脅迫状をどうしても今日中に見たいと、鈴木が言い出した。帰宅後すぐにファックスで送ると答えたが、どうしても今日、自宅に同行してコピーを受領したいと言う。 「これから、車で行きましょう。」と、鈴木が言ったとき、隠された意図を感じた。私は、車では時間が掛かることを説明し、電車で行くことを主張した。鈴木は執拗に車を主張。小野と鈴木は、また外の部屋との往復を繰り返し、最後の最後に、小野が間に入って電車で行くことを了承した。「Iやあ、本当に車が嫌いなようですね。電車で行きましょう。」といった。そして、鈴木・小野が神奈川の自宅まで本当について来た。東海道線のなかで、「記念」にお二人の写真を取らさせて頂いた。ソニーのサブノートパソコンに付随したカメラで写真を撮られても、OAに詳しい人物でなければ、気がつかない。(写真を撮ったことは,後日彼らにメールで伝えた。) 平塚駅についてトイレに入った私は、携帯電話で話しをしながら改札口を出てきた。「いやあ、参った。今日警視庁に行ったことが、姉にばれてしまいましたよ。叱られましたよ。」。そして、駅から自宅まで徒歩で向かう間に、自宅に電話し、「え、友達が5人も来てるの?」。「小野さん、うちのカミさん、風邪ひいているっていうのに、友達が来てるっていうんですよ。何考えてんだか?」二人は、硬い表情をしながらも黙っていた。身を守るためには、時に嘘も必要です。 4)私の自宅の電話は、対外用の主番号と家族・友人用のダイヤルイン番号に分けてある。同日夕方、「宮沢」が電話してきたのは、ダイヤルイン番号の方であった。勿論,番号案内では解らない番号である。家族と友人以外知らない番号をなぜ宮沢が知り得たのか?:盗聴していたからであろう。もし、正規の捜査に基づくものであるならば、NTTに問い合わせて知ったことになる。その場合、捜査部署がNTTに提出した「捜査関係事項照会書」が残っているはずである。そして、どんな捜査に情報を使用するのかも書いてある筈である。 6)脅迫状のコピーをなぜ、わざわざ自宅まで取りについてきたのか?ファックスで送れば済んだはずである。:別の目的があったから。しかし、中途で実行を諦めたと考えるしかない。 7)私の血液検査と尿検査が、今回の事件に何の関係があるのか? 8)鈴木はなぜ、身分を開示できないのか?警察手帳を提示しないのも、所持していないのも規則違反である。都合の悪いことがあるのか?本当に本庁の捜査1課の刑事なのか?後述するが、実際は赤坂署など所轄の署員であった可能性がある。 |
その後.....10月30日〔土〕の夜、その日にあった出来事を考えてみると、何らかの対抗策をとるべきと考えた。相手が、強大で組織的ではあるが、間抜けでもあることがわかってきた。 そこで、まず接触のあった自称フジテレビ記者にファックスで連絡した。10月17日に長時間、あれだけ熱心に私の話を聞いてくれた彼女は、本事件の信憑性を理解していたから、当然、警察官の動きに興味を示すはずであった。 翌日、31日〔日〕にも追加で彼女にファックスを入れた。当然彼女から、すぐに反応があると思っていた。なかった。ファックスの送信に異様に時間がかかるのが気になった。通常の3-4倍の時間が掛かった。本当にフジテレビのファックスなのだろうか? |
1999年11月1日〔月〕 警察官が、偽装捜査に動き出した。 |
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休み明けの月曜日、彼らは鈴木に、早速私の東京の実家を突然訪問させた。何も身分を証明するものがないと疑われると考えたのか、警視庁刑事部捜査第一課、警視庁警部補 鈴木忠一という名刺を持ってきた。名刺には、手書きで内線番号735-320と書き加えてあった。 午前中のうちに到着した鈴木は、警察手帳をほんの一瞬、両親にちらつかせた。しかし、両親には所属や氏名まで確認できなかった。そして、用意しておいた名刺を提示した。捜査を開始した旨、両親に伝えた。息子の妄想であると思わせるためだろうか、「正規の医師の死亡診断書が出ているので、保険金殺人とは考えにくいんですよ。息子さんの考え過ぎじゃないんですかね。」といったという。正規の診断書を出した医師が犯罪組織の構成員である疑いを捜査している筈の男が、言うべき言葉ではない。それでも、年老いた両親は、鈴木の迫真の演技にまんまと騙された。 一方、私は警察官たちが犯罪組織の一員であり、偽装捜査を関係者の前でやって見せようとしていると考えた。警視庁本庁に呼び出されて事情聴取を受ければ、普通の人間なら、まさか偽装捜査とは思わない。さらに、捜査のふりをして、数日後事件性はなかったと私と関係者に報告すれば、「何だ、やっぱり思い違いだったのか?」と納得してくれる筈である。普通ならば。これで、告発活動は抑え込めるし、必要に応じて私を拘束する手段を講じることも不可能ではない。 私は、鈴木が実家を訪れた目的が、私に対する恫喝であると感じた。告発をすれば、家族に危害を与えると言う暗示をするために、わざわざ休み明け一番に実家に行ったと考えた。そこで、彼らの意図を読み、次の手を打った。 11月1日〔月〕昼前に警視庁捜査一課長あてに、思い切りいやみったらしいメールを送った。メールの内容を読めば、正体を見破られたことがはっきりしたはずである。連中は思い切り焦ったと思う。 警視庁あてのメールは捜査一課長宛の部分と宮沢・小野・鈴木宛の部分とをつなげたかたちで入れた。捜査一課長宛としても、絶対に届かないのを承知の上である。宮沢らは、もちろん一課長の目には触れないようにメールを隠蔽したと思う。11月3日の文化の日には、警視庁を再訪できないという趣旨のメールではあったが、ほかにも色々と書いておいた。宮沢らの捜査が擬装であることを見破りながらも、慎重に言葉を選んで、犯罪組織の動きを封じ込めるための文言を並べたつもりである。宮沢たちが次に何をしてくるか、予測してその通り書いておいた。別件逮捕の計画も考えておいた。さらに、3人の役員・社員の殺害を依頼したアーテックに対する取引のもちかけともとれることを書いた。〔詳細は後述。) |
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数日して、まだ会社にいる一般社員から話を聞く機会があった。 11月1日、午後4時ごろ二人の警視庁刑事がアーテックに来たと言うのである。そして、中島と応接室に入り、数時間話をしていった。さらに、翌2日にも刑事が再訪している。 10月30日にはじめて私から事情聴取をして、実質捜査初日である11月1日の午後に、主犯格に面会しているのである。捜査員二人が、小野と鈴木であることは、その一般社員に写真を見せて確認したところ、間違いなかった。 私の上記のメールで、追い詰められ善後策を中島と協議するためアーテックに行ったと考えるが、一方で警視庁警察官と身分を明かして訪問しているのは、あくまで捜査の一環という印象を一般社員に与えるためであると思う。彼らにしてみれば、「事件性がないことがほぼわかったので、念のため被疑者の中島に確認を取りに来た。」との解釈を一般社員がすることを期待しての行動であろう。中島から、一般社員には「私が殺されると騒いでいるので、刑事が調べに来た。ばかばかしい話だ。」と言う趣旨の説明がなされた。一般社員は無知蒙昧であるから、これで納得する。私は、見事に同僚からキチガイ扱いされるに至った。別に構わないが。彼らは、一般社員が私同様の疑惑を持つことを恐れていた。だから、私の告発が精神異常に起因すると社員に印象付けることが、必要だった。その意味で、刑事の来訪は頭のよい選択だったかもしれない。そんな、計略を思いつくのは、中島しかいない。中島の悪知恵は、天下一品である。 一方で、彼らは刑事のアーテック訪問が、私の耳に入るとは計算しなかったと思う。8月以降、あえて誰とも連絡を取っていなかったし、盗聴を予測して一切情報が漏れないよう配慮していた。私に情報をもたらす内部関係者がいるとは考えなかった筈である。私は、中島も警察官も偽装捜査が見破られたことで、逆に犯罪の実在を証明してしまったことに酷くうろたえたと思う。そこで、緊急に警察官と会って善後策を練る必要が出たのであろう。会議の場所をアーテックとしたのは、さすが、中島の知能犯的判断である。アーテックで、私が警視庁に提出した書類をつぶさに調べ、策を練ったと思う。その結果として、当日夜及び翌日、小野から携帯電話に留守番電話が3本入った。 少なくとも、私の11月1日のメールを間違いなく小野が読んでいる証拠にはなる。もし、正規の、まともな捜査であるなら、こんな内容の伝言にはならない。私のメールが示唆しているアーテックへの取引提案(賠償金の支払)に対する肯定的解答の意味と捉えた。私の提案の目的は、彼らが実際に金を支払ってくることにより、犯罪の実在を証明することだったが、失敗と言うか、自ら計画を潰してしまった結果となった。後述する。 1999年11月2日〜 警察官は、私の周囲の人間に働きかけた。 警視庁の連中は、私の告発活動を阻止するために家族に働きかける手段をとった。実家の両親に対する接触は、専ら鈴木が担当した。2度ほど実家に電話して来た。両親は、私が警察官に疑惑を持っていたことを知っていたので、なぜ警察手帳や名刺を提示しなかったかなど、問い質したが、鈴木は必要がないと思って提示しなかったと説明した。老練の刑事が、世間知らずの老人を騙すのは簡単である。私は、鈴木に騙された両親から、鈴木の提示した名刺を入手するのに苦労した。 鈴木の目論みは、�@両親に私の告発が妄想だと思わせ、両親から私の動きを止めさせようとした。�A両親に頻繁に連絡をとる事で、私に対する圧力をかけようとしたと考える。彼らに出来ることは、それしかなかった筈だ。 真面目に生きてきた普通の老人は、幾らなんでも警察官がそこまで穢れているとは思いもしないし、ましてや自分の周囲に警察官絡みの大犯罪が起きるなどと、現実的に考えることもできない。息子の妄想と考えることが、一番安易な逃げ込み場所であると思う。仕方がない。 後で解ったことだが、11月2日か3日のどちらかに、アーテックで私と疑惑を共有していたK氏の神奈川の自宅に空き巣が入った。取られた物はなかったようだが、部屋内が荒らされていたと言う。彼は警察を呼んだが、不可思議なことがあった由。彼の部屋は1階部分で、2階にもガラス窓を破って侵入した形跡があったのに、刑事は2階の方を一切調べようとしないと言う。K氏がなぜ調べないか、詰問したところやっと動き出したと言う。もし、この空き巣がK氏に対する間接的な脅迫を意図するものであるなら、捜査にやってきた刑事についても疑惑がある。もちろん、その後この事件は迷宮入りである。(後日K氏から概要の報告を受けました。2日,3日のどちらであったかは、失念しました。) |
1999年11月8、9日 小野から電話が入った。 |
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8日小野から、自宅に留守番電話が入った。「今度、奥さんと一緒に会いたい。」というどすの効いたヤクザまがいの脅迫だった。要するに、アーテックから仕入れた私の個人的な情報を使って、脅しを掛けてきたのである。そこで、翌9日、警視庁捜査一課長あてに再度メールを送った。 | |
1999年11月20日 メールで対抗した。 |
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警視庁の犯罪被害者相談室にファックスを送った。警視庁から、何も応答がなかった。これに前後して、警察庁のホームページにもメールを送った。返答無し。 アーテックの中島宛にファックスを送った。内容を読めば解るが、ここまで攻めたてても、名誉毀損などで告訴を起こしてこない事実をどう解釈できるのか?私を「キチガイ」とみなして、キチガイは相手にしないという姿勢が、周囲の人間の疑問を払拭する唯一の方法であると考えたろう。実際に告訴などしたら、自ら犯罪を実証してしまうことになる。 |
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1999年11月21日
アーテックの中島宛に再度ファックスを送った。 |
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final document 3 11月23日(木、祭日) 11月20,21日と続けてアーテックの中島あてに最後通牒をファックスで送付したが、アーテックの解答を持ってきたのは警視庁の刑事二人だった。 「今、第三者に連絡をとりましたので。」と言ったら、鈴木が口を開いた。「じゃあ、その人が来てから話をした方がいいんじゃないですか?」「イやあ、時間がかかるから。」と私は答えた。鈴木は、私が別の警察官の誰と接触があるのか、調べていたのだろう。既に、警察官の横の連絡で、圧力を掛け、黙らせる算段をしていたのかもしれない。これは、後日、実態が解るであろう。腐った組織は、警視庁だけでなく,首都圏に広がっている。鈴木は、威圧的態度を崩さず、背広の左内側に始終手を入れていた。そこに、拳銃があるということを示したかったのだろう。この男は、世界最低の警察官として、ニッポン警察史上に名前を残すだろう。 |
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私 | 「小野さん、捜査の結果はどうなったの?保険金は下りていたの?」 小野は震える声で、搾り出すように答えた。 |
小 野 |
「調べたら、特に何も出てこなかった。中川さんの場合は、ちょっとあったけれど、子供の学資保険の類でね、ほかにはなかったですよ。」そう言いながらも、小野の両膝はがくがくと震え、今にも倒れそうな程、動揺しているのがわかった。なんだか、かわいそうになってきてしまった。 |
私 | 「それじゃあ、要するに事件性はなかったということですね?」 |
小 野 | 「そうです。」 |
私 | 「解りました。殺人の事実がないとわかったならば、それで結構です。ご苦労様。僕のほうも、こんなつまらないことにいつまでも関わっていられないんですよ。早く仕事を再開しないと、お客さんに迷惑を掛けるんでね。」 実のところ、彼らが何も出来ないように、人通りのあるマンションの入り口まで同行させたが、まだ危険はあった。今日のところは帰らせようと思った。 |
小 野 | 「後は、お宅とアーテックとの間の交渉事だから。警察は、もう関係ないから。」 この言葉の意味を、その場では理解できなかった。鈴木が、左胸のホルスターにしきりに手を入れるのが気になっていたのである。後で考えれば、私の最後通牒にある通り、賠償金要求を支払うから、告発を止めてくれという意味であった。しかし、このとき、私は鈴木の威嚇的態度に激高し、正しい判断が出来なくなっていた。 |
私 | 「そうですか。ところで鈴木さん、あんたは何で身分を明かせないんですか?あんたの下の名前は何と言うんですか?警察手帳を見せてください。」 |
鈴 木 | 無言.... |
小 野 | 「いやいや、今度の件は、私が担当しているんで。私が責任持ってやってますんで。」 |
私 | 「解りました。警察手帳を見せてください。」小野は、ぶるぶると震える手で、警察手帳を差し出した。「あれ、警備課って書いてあるじゃないか?」 |
小 野 | 「それは、(警察手帳を)管理する部署のことです。」 |
私 | 私は、小野の警察手帳を半ば強引に引き寄せ、ページをめくった。 「おう、本当だ。たしかに刑事部捜査第一課警部補、小野善久って書いてあるわ。あんたのことは信用するよ。あれ、捜査一課長って、金子っていう人なの?」 |
小 野 | 「いや、前の人です。」 |
私 | 「小野さん、僕はあんたのことは信じるよ。鈴木さん、あんたはなんで身分を明かさない?信用しろって方が無理な話だ。」 |
鈴木は、終始無言を決め込んだ。背広の内側に手を入れ、しきりにホルスターを触って、威嚇した。非番の日に短銃を携帯すること自体が、規則違反である。私は、この男が心底嫌いになった。まずいことは全て小野に押し付け、自分だけは正体を知られたくない、安全を確保したいという、実につまらない男に思えた。一番嫌いなタイプだった。絶対に許すべきでないと思った。この時点で、取引に応じて尻尾をつかもうという気持ちも吹き飛んでしまった。 | |
私 | 「小野さん、僕が東京に事務所を持っているって、どうやって知ったんですか?どこから聞いたんですか?」 |
小 野 | 「警察で調べました。」搾り出すように答えた。 |
私 | 「それじゃあ、何で宮沢ってやつは、うちのダイヤルイン番号に電話してきたんだよ?どうして知っていたんだよ?」 |
小 野 | 「......私はね、宮沢みたいにダイヤルインには電話していないでしょう。」 |
私 | 「そうですね。ところで、宮沢って誰なんですか?このあいだ警視庁であった3人のひとりでしょう?」 |
小 野 | 「いやいや、この件は私が中心でやっているので。私が責任持ってやってますんで。」 警視庁の犯罪者一味は、表に出る一番やばい仕事は全て小野に押し付け、自分たち上の階級の連中は絶対に正体を明かさないよう、逃げ回っている。実に汚い連中である。小野氏は貧乏くじである。彼が、またまたかわいそうになってきた。 |
こうして、短い会話の後にふたりは帰っていった。小野は、背中を丸めてとぼとぼと歩いていった。 小野は組織の中で一番危ない役を押し付けられ、この日も、組織の幹部から強要されて私に会いに来たのではないか?近所で、幹部が嫌がる小野の背中を押して、無理やり来させたような気がした。犯罪組織の中にも、警察の階級は歴然として存在するのだろうか。 彼らが帰った後も、私の興奮は収まらなかった。何人かの関係者に電話で刑事の来訪を伝えた。 しかし、実際のところ私は、取引のことなど頭から飛んでしまっていた。取引に応じるどころか、まずアーテックの中島に同日夜、10時40分、ファックスを送った。そして、12時を過ぎてから、3通目の請求書ファックスを送った。その日の警察官の来訪を脅迫と捉え、当日分の慰謝料を上乗せした改定請求書を添付した。普通なら、この2本のファックスで、取引拒否の意思表示ととる筈。 1999年11月24日 私が、取引を拒否し、逆に各方面への告発活動を再開したことに一味は困惑したであろう。翌、24日私の自宅となりのスーパーで、夕方、鈴木が弁当を買っているのを、買い物に出た家人と友人が目撃した。家人は、23日に来た刑事の顔をよく覚えていた。眼鏡を外して偽装した積りだったかもしれないが、家人にはわかった。私の帰宅を待って、拉致でもする積りだったのか?家人は、経緯を知っていたので恐ろしく思い、すぐに実家に電話をした。そして、昨日来宅したのと同じ刑事を見かけたことを伝えた。鈴木は、それを盗聴していたのだろうか、居なくなった。おかげで、遅く帰宅した私は拉致もされずに済んだ。 1999年11月24日以降 11月23,24日の出来事に前後して、いろいろと変な連中が自宅や私の周囲に出没するようになった。もちろん、全てが組織の人間とは思わない。私の勘違いもいくつか含まれるだろう。しかし、中には後からオウム信者や別の宗教団体の信者とわかる連中も居ると思う。たくさん居たが、印象に残ったものだけ、挙げてみる。 これが今までの経緯です。犯罪の実在を強く信じます。秘密裏に殺され、保険金詐取のネタにされていた人たちが、他にもたくさんいると思います。そして、オウムと警察の癒着も、この事件の解明で見えてくると思います。 その後....final_doc.5 犯罪者集団との直接の接触は、99年11月に終わった。以後、私はこの事件の分析に取り掛かった。一体どんな連中が背後にいるのか、皆目見当がつかなかった。もともと、社会情勢にあまり興味のあるほうではなかったし、オウム事件では、ただのミーハー的傍観者でしかなかった。だから、ゼロからの勉強だった。インターネットで、あらゆる情報を集めてみた。オウムと関わりのあるほかの組織をざっと調べてみると、大手マスコミからは殆ど報道がなされていなかった。しかし、それでも断片的な情報の中から、統一教会、創価学会、暴力団、ロシア、北朝鮮、そして政治家が浮かび上がってきた。それぞれがどんな形で、オウムと関わってきたか調べてみた。背後に容易ならぬ力関係があること、一連のオウム事件をオウム単体による犯罪であるとの結論を作り上げ、幕を引こうとした連中がいることが見えてきた。私の扱っている、この保険金事件にも同じ連中が背後にいるのではないかと思った。 |